プロローグ

 爽やかな風が頬を撫でる。あまりにも気持ちのいい風だったので、男は本を読むのをやめて目を瞑り、しばらくその心地よさを感じていた。
「兄さん、寝ちゃったの」
 庭で獣たちと戯れていた弟が駆け寄って男に声をかけた。
「いいや、風が気持ちよかったから」
 すぐに目を開けると、顔を覗き込んでいた弟と目が合った。どうしようもない可笑しさが込み上げてきて思わず笑うと、弟もつられて笑い出す。
 ついこないだまで、争い合っていたとは思えないほど穏やかな時間だった。
 男は膝に置いていた本から手を離し、胸に手を当てた。胸を覆う純白の鎧の冷たさが、手袋越しでも伝わってきた。
 この鎧は弟の血で穢れている。互いを傷付け合った戦争から数ヶ月、男が刺した弟の腹部の傷も、弟に斬られた男の脚部の傷も、もうずいぶん良くなった。
 ふと、日差しが遮られ、男に影が落ちた。
「レシラム」
 名前を呼ばれた巨竜が、鼻先を男に近付ける。
 かつて、レシラムと弟の背後で丸くなって眠るゼクロムはひとつの竜だった。男と弟が対立したとき、二人に従っていた一頭の竜はふたつに分かれた。男に寄り添ったのは、男の鎧と同じ純白の竜。弟に寄り添ったのは、弟の鎧と同じ漆黒の竜。
 この兄弟の対立が、とある臣下によって仕組まれたものだと判明し、二人は和解し再び手を取り合い、そして二頭の竜に名前をつけた。白き竜には弟の名を、黒き竜には男の名を込めて名付けた。
 男はレシラムの額に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。竜だというのに、地上を駆けるものたちのように毛が生えている。不思議な生き物になってしまったものだ、と男は思った。
「私の傍に居てくれてありがとう」
 言葉と共に、己の心を伝えた。男にはそれができた。感情を、考えを、情景を、相手に伝えることができる不思議な力を持っていた。巨竜と共にその力を使って国を築いた男は英雄と呼ばれ、男と真逆でありとあらゆる感情や考えを感じることのできる弟も、兄と共に国を築き英雄と呼ばれていた。
「ボクも撫でていい?」
 弟が尋ねると、レシラムは頭を弟の前に差し出した。子供のようにはしゃいで撫でまわしていると、ゼクロムが顔だけ上げて短く鳴いた。
「ああ、ごめん、きみも撫でてあげる」
 弟は獣たちの感情が分かる。いや、獣だけではない。男が生きとし生けるものに己の感情を伝えられるように、弟は生きとし生けるものの感情を受け取ることができる。
 言葉の通じない獣たちと心を通わせる弟を見ていると、男は羨ましい気持ちで胸がいっぱいになる。
「兄さんもおいで」
 ゼクロムを撫で回す弟が、大きく手招きした。
 男はテーブルに本を置くと、脇に立てかけてあった杖を持ち、庭で戯れている弟とゼクロムの元へ歩き出した。脚の傷は良くなったものの、もう杖無しでは歩けない体になってしまった。
 ゼクロムの額に優しく触れると、ゆっくりと撫でた。黒き竜は目を瞑り、眠りの体勢に入っているようだ。
「喜んでるよ」
 弟が男の顔を見て笑った。双子だというのに、弟の方が少し幼い印象を受ける。
「わっ」
 男はゼクロムに触れていた手をそのまま弟の頭に移し、竜たちのときとは違いがしがしと荒く撫で回した。
「髪がボサボサだよ」
 弟は拗ねたように、しかしどこか嬉しげな様子で、若葉のように鮮やかな薄緑の髪を整えた。男もひとこと、悪かった、と言い整え直してあげた。
「たまに不安になる」
 跳ねた髪を直し終えた弟が、少し俯いて呟いた。
「兄さんの気持ちだけは分からないから、兄さんは何を思っているんだろうって、すごく不安になるときがある」
 弟は心の内の感情を読み取ることができるが、兄に対してだけはその力を発揮することができなかった。その不安に付け入られて、そそのかされ、対立してしまうに至ったのだが。
「私も、気合いを入れないと、お前の心に届けられないからね」
 男の伝える力も、弟のように全く発揮できないわけではなかったが、やはり兄弟同士では作用が弱かった。
「でも、それが普通なのだよ。私たち兄弟以外のものは、感情をそのまま伝えることなどできないし、感情をそのまま受け取ることなどできない。だからこそ人間は言葉を持つ、獣たちも行動で示す。それを忘れてはいけない」
 柔らかく、それでいて力強い男の眼差しを受けて、弟は大きく頷いた。
 突然、視界が揺れた。男は杖を取り落としふらふらとよろめいた。
「兄さん!」
 慌てて男の体を支えた弟が、男の顔を覗き込んだ。
 心臓が激しく脈打ち、息苦しく体に力が入らなかった。体温が急激に下がったように思えた。
 男の顔は青ざめて、今にも倒れそうだ。弟の呼ぶ声も、まるで遥か彼方から声をかけているのではないかと思うほど遠くに聞こえた。
 死ぬのだろうか、男は思った。意識が朦朧としてきた。苦しくて苦しくて仕方がない。霞む思考の中で、唯一の肉親である弟と争い、多くの命を巻き込んで戦争をした自分が、こんなにも苦しんで突然死ぬとは、お似合いなのかもしれないと思った。
 ぼやけた視界がチカチカと瞬いた。と、その瞬間、後頭部あたりにものすごい衝撃が走った。男はその衝撃を受けて前のめりに倒れ込んだ。
 今のはなんだったんだ。頭が痛い。息が詰まる。呼吸をしないと。
 大きく息を吸った。肺に空気が入ってくると、だんだん落ち着きを取り戻してきた。視界もはっきりと像を結び始め、脈もゆるやかになる。
「兄さん、大丈夫?」
 顔を上げて声の主を目で捉えると、一瞬言葉を失った。ふた呼吸ほど間をおいて、どうにか声を喉から絞り出した。
「お前……Nだよな……?」

2023年11月4日