はあ、と大きなため息をついた。アララギは椅子の背もたれに体重をあずけると、眉間に親指と人差し指を当てて軽く揉んだ。
正面のモニターにはずらりと文字が連なっている。どうにも目が滑って内容が頭に入ってこない。コーヒーを飲もうとモニターの傍にあるマグを手に取るが、そうだ、もうとっくに飲み終えていたのを忘れていた。
いや、これは仕方ないな、とアララギは心の中で呟くと、椅子から立ち上がりしばし休憩を取ることにした。
春、アララギにとって一年でもっとも憂鬱な時期。
協会公認のポケモン博士という称号は、血の滲むような努力と眩暈がするほどの金が必要になる。そうやってかき集めた金のおかげで、さまざまな施設の利用を許可されているし、本部の資料も見放題だ。
しかし、研究者でありながらも、社会貢献をしなくてはならないという規約が多くのポケモン博士の頭を悩ませていた。ポケモン協会公認の資格のほとんどは、地域と連携して社会福祉や子供の教育等に関わらなければならないと、規則にしっかりと記述されている。
アララギはポケモン特別保護地域イッシュ地区の行政機関と契約しており、十歳から十八歳までの子供を対象とした夏期休暇中のトレーナー体験支援を行なっている。その書類選考が、この春の時期にやってくる。
電気ケトルのスイッチを押し、また大きなため息をつく。博士になったばかりで、この事業を担当することになった時、それはそれは心を躍らせたものだ。未来ある子供たちに、大きなチャンスを与えることができる。一体どんな発見をするのだろう。ポケモンを通して何を思うのだろう。
(わたしは何のために……)
ケトルを眺めながら考えた。子供たちのためのチャンスを、こんな気持ちで決めるなんて想像もつかなかった。
夏期休暇トレーナー体験は、七月末から八月末までのおよそ一ヶ月間。書類と作文での選考と、その中から選ばれた人で更に面接、その年によって多少ばらつきはあるもののだいたい二人から五人が選ばれ、最終的に協会本部から認可された人だけが一ヵ月の旅の資格を得ることができる。
協会特別認可トレーナーカードを発行し、一ヶ月困らない程度の資金も渡される。資金はあまり多くはないが、トレーナーカードがあればポケモンセンターに泊まることができるし、特別認可カードの場合はセンター内のショップでは半額で買い物ができる。博士から必ずツタージャ、ミジュマル、ポカブのうち一体は必ずもらえることになるので、わざわざ捕まえなくても大丈夫なようになっている。
そこまで手厚く支援するのにはもちろん理由がある。三日に一回は必ずレポートを提出しなくてはならず、これを怠った場合、当然トレーナーカードは剥奪され旅も中止。学校の夏期課題の免除も取り消され、旅の後半にこうなった場合、史上最悪の夏休みとして心に刻まれるに違いない。
そう、その最悪なケースが、ここ数年続いているのだ。あと残り一週間のところでレポート提出をし忘れ突如打ち切りになったり、はたまた開始一回目のレポートすら提出できなかったり、昨年なんてレポートは提出できていたもののその内容が酷すぎて急遽打ち切りになった。
書類とほんの数分の面接で、どんな人間なのか理解するなんて無理だ。大量に送られてくる文章の中で、親に無理矢理書かされている子、なんとなく応募しただけの子、遊び感覚の子、家庭があまり裕福でなく支援を受けなければトレーナーになる機会がない子、将来ポケモンと関わる仕事に就くために何がなんでも支援を受けたい子など、慎重に見極めなくてはいけない。
(本当に支援が必要な人を選べなかったら……わたしが未来を潰すことになる……)
ここ数年、決して良い人選ではなかったと、直接的ではないがほのめかし程度に協会本部の人間から言われている。
トレーナー体験と言うからみんなが気軽に応募するんじゃないだろうか。この旅は行動研究の一環でもある。
「はあ〜〜憂鬱だあ〜〜」
アララギはぐしゃぐしゃと頭を掻きむしると、コーヒーで満たされたマグを持ち再びデスクの椅子に座った。
ため息ばかりのアララギを心配しているのか、チラーミィが足元に擦り寄ってきた。
「ああ、ごめんごめん。なんでもないの」
屈んで顎のあたりを撫でてやると、目を細めて嬉しそうに尻尾を振った。そのまま持ち上げて膝に乗せると、チラーミィは丸くなって眠る姿勢になる。
「さて、気を取り直して再開しますか」
モニターに向き直り、ずらりと並ぶ未来ある子供たちの意気込みに目を向けた。ふと、連名で応募してきたファイルが目に留まった。基本的にはひとつの応募につき一人と決まっている。募集要項に沿って提出できない人のファイルは、中身を見ずに除外するのが常識だが、アララギはしばらくそのファイルを眺めた。
(あえて規則を守らず応募してくる子供たち……今なんだかそういうイレギュラーな存在に惹かれちゃう)
カーソルを動かし、思い切ってその連名のファイルを開いた。カノコタウンに住む、高校一年生の男の子二人と中学三年生の女の子一人、合計三人の応募だった。
なぜ三人で応募したのか、どうして旅に出たいのか、その経緯をこと細かに書いてある。アララギは食い入るように三人の作文を眺めた。
「これ、当たりね……!」