この旅の始まりの場所は、ここなのかもしれない。カラクサタウンのカフェのテラス席で昼食を取っていたチェレンは思った。
こうして三人でゆっくりしたいね、とベルと言っていたのはもう何ヶ月も前だが、まるで昨日のことのように思い出せる。まさか本当に旅に出られるなんて思っていなかったけれど、思い切って応募してよかったと思わずにはいられなかった。
「……なんだよ」
手を止めてベルとハインツを眺めていると、ハインツが顔を上げた。
「食べないのか?」
「あ、食べるよ、ちょっと考え事してただけ」
慌てて手元のパスタに視線を落とした。
まだ旅は始まったばかりだけれど、こうして三人で一緒に旅に出られただけでも元は取れたな、と考えた。たとえ途中で挫折するようなことがあっても、今日三人で第一歩を踏み出せたことは、きっと大きな意味を持つに違いないと。
食事を終えて今後の動きについて話し合っていると、テラス席から少し離れた広場で人が集まりだしているのが目に入った。
「なんだろ。パフォーマンスかな」
ベルが席を立って背伸びをするが、うまいこと集団の先頭を見ることはできなかった。
「見てみない? カラクサタウンであんなに人集まってるの初めて見た!」
会計を手早く済ませると、三人は広場へ一直線に向かった。
「僕にはただ人が集まってるだけで、他に何かありそうには見えないんだけど……」
いざ集団に合流すると、パフォーマンスも何も行われていなかった。人々の視線の先に見慣れないエンブレムを掲げた旗が立ててあるが、それの持ち主と思われる人も見当たらない。
「これから何か起こるんじゃない?」
ひょこひょこと爪先立ちをして周囲を眺めるが、皆も野次馬のようで何が起こるか知らない人がほとんどのようだった。
そろそろ戻ろうかという空気になりかけた瞬間、騎士のような印象を与える青みがかった薄灰色の衣装に身を包んだ人々が、旗の横にずらりと立ち並んだ。何事かと皆がざわざわと騒ぎ始めると、ローブを着た壮年の男がゆっくりと歩いてきて中央に立った。男のローブも薄灰色だが、襟や袖口に黄と紫のラインが引かれており、基本的にモノトーンな他の者とは違う立場の人間なのだろうと推測できた。
「わたくしの名前はゲーチス。プラズマ団の、ゲーチスです」
ゆっくりで、しかしはっきりと通る声だった。ゲーチスと名乗った男は、神の啓示を伝える司教のように両手を空に掲げた。
「聞いたことがある」
チェレンがふたりに耳打ちする。
「たまにニュースでやってるやつだよ。ポケモンを解放するだのなんだの言ってる集団だ」
ハインツは今朝見たニュースを思い出し、ああ、あれかと心の中で呟いた。
「皆さま、プラズマ団の活動をご存知でしょうか。わたくしたちは人々とポケモンが、互いに平穏で健やかに過ごせる世界を目指し、このイッシュで活動をしております」
ゲーチスは胸に手を当てて、穏やかな口調で続ける。
「皆さまは、ポケモンをお持ちですか? ポケモンたちと過ごした日々を思い返してみてください。幸せで満ち足りた生活を思い浮かべられると思います」
周囲をゆっくり見渡しながら演説するゲーチスと一瞬目が合ったように思えて、ハインツは慌てて俯いた。自分の靴を見ながら、ゲーチスをどこかで見たことあるような気がしたが、きっとニュースだろうと思いそれ以上深くは考えなかった。
「ですが、ポケモンたちにとっても、幸せで満ち足りた日々だと言えるのでしょうか。人間の行動に合わせて生活させ、傷つけ合うバトルを強要し、野生とは全く異なる環境に置くことは、果たしてポケモンたちにとって良いものなのでしょうか。自分のポケモンは幸せであると、胸を張って言えますか?」
聴衆のざわつきが増してきた。知り合いと顔を見合わせ、不安げに何かぶつぶつと喋っている。
「全ての人間がポケモンたちを不当に扱っているとは言いません。しかし、扱いが荒い者、種族に見合わない重度な仕事をポケモンに任せている者、人間でもできる仕事を任せきりにしている者。そういった人たちを見たことがない方はいらっしゃらないのではありませんか? そういう人間の元で暮らしているポケモンたちを見て、可哀想だ、と思ったことがあるのではありませんか?」
確かに、違法なバトルで必要以上に傷付いたポケモン、犯罪に使われたポケモン、捨てられて保護されたポケモン、そのどれかは毎日必ずニュースで目にする。
「どうしたらいいんだ……?」
聴衆のうちの誰かが呟いた。誰かひとりの言葉だったが、それはある意味ここにいる全ての人間の言葉でもあった。皆が同じように不安を抱えていた。
「我々人間がポケモンにできることは、ただひとつなのです」
「……解放?」
再び誰かが呟いた。それもまた誰かひとりの言葉であり、皆の言葉でもあった。
「そうです! ポケモンを解放するのです。モンスターボールがまだ存在しなかった時代、人々とポケモンたちが程よい距離を保っていたあの時に戻るべきなのです。人間から解き放たれ、自然に生きる姿こそがポケモンたちのあるべき姿だと思いませんか」
その場に居た誰もがゲーチスを見ていた。ハインツたちでさえ。
ポケモンの幸せとは何なのだろうか。演説を聞いていた全ての人間に、しこりのような疑問が生まれた。
「人の手を離れて、初めてポケモンたちとわたくしたちは対等になれるのです。さあ、皆さまも考えましょう、ポケモンたちの幸せを。わたくしたちに何ができるのかを」
ゲーチスは深く礼をして一歩下がると、次は部下たちが前に出てきた。パンフレットを配っていると、何か相談がある方は是非お声掛けくださいと声を張り上げている。
呆れてその場を離れる者も居たが、不安げに顔を曇らせたり、プラズマ団の元に駆け寄ったり、茫然と立ち尽くしていたり、知人と今のことについて語り始めたりする者の方が多かった。
「どう思う?」
チェレンがふたりを交互に見ながら言った。
「僕は、プラズマ団の言ってることが間違ってるとは思わないけど、正解だとも思えない。人間たちと一緒にいるのが幸せなポケモンだって居るはずさ」
「あたしは……」
ベルはリバルトの入っているモンスターボールを取り出し、ぼんやりとそれを眺めた。
「よく、わかんない。どうしたらいいんだろう。博士に意見聞いてみたいかな、今のところ」
「そうだね、ポケモンセンターに行ったらアララギ博士に連絡してみようか」
ふたりの視線がハインツに移った。ハインツはどう思う——とベルが口を開いた瞬間。
「兄さん」
若葉を思わせる薄緑の髪の青年が、三人から少し離れた場所に立っていた。一瞬、三人は顔を見合わせたが、自分たちに向けたものではないだろうと思いすぐにポケモンセンターに向かおうと歩き始めた。
「待って、兄さん、兄さんだよね」
青年は小走りで追いかけて来て、ハインツの肘あたりを掴んで自分の方へ振り向かせた。まさか自分に向かって言っていると思っていなかったハインツは目を見開いている。
「なっ……人違いだ」
青年の手を振り解こうと、掴まれた腕をブンブンと振り回すが、一向に離してくれる気配は無い。
「ああそうか」
青年は目を細めた。
「記憶を置いてきてしまったんだね。じゃあボクのことが分からなくても仕方がないよ。本当のことを思い出すまではボクのことをNと呼んで。今のボクに与えられた名だから」
Nと名乗った青年は、ひと息でそう言うとハインツの瞳の奥を覗き込んだ。くすんだ空のようなNの瞳は、暗く冷たく感じてハインツは動けずにいた。
「ずいぶんと早口なんだな。悪いけど僕たち急いでるんだ」
Nとハインツの間にチェレンが入り込み手を離すよう促すが、言っていることが分からないと言いたげにNは首を傾げた。
「ちょっと、警察呼ぶよ!」
「それは困る」
チェレンが声を荒げると、ようやくNは手を離した。
「みんなポケモンを閉じ込めているんだね。何の疑問も抱かずに」
「と、閉じ込めてるって」
Nの言葉に、ベルが一歩下がる。
「ボクはポケモンの気持ちが分かるんだ。ニンゲンと一緒に居てポケモンたちが幸せになれるとは思えない。キミたちもさっき演説を聞いただろう? くだらないと一蹴してしまえばいいのに心が揺れ動いているんだね」
「さっさとポケモンセンターに行こう」
Nを警戒しながらチェレンがふたりを歩かせようと促した。
「兄さん」
立ち去る三人の背に、Nが語りかける。
「ポケモンたちは……獣たちはニンゲンに支配されている限り完全になれない。皆が自由でしかも尊重し合っていた時代を兄さんも知っているはず」
先程のように無理矢理引き留めようとはせず、Nはその場で淡々とハインツに語り続けた。
「思い出して兄さん。そしてボクの名を呼んで」
腕を掴まれていたときよりも、自分に強く訴えかけられているようにハインツは感じた。この青年のことなど何も知らないのに、ずっと会いたかったような気さえした。
チェレンに急かされてその場を離れたが、ハインツは見えなくなるまで肩越しにNの姿を見ていた。
あいつは一体誰なんだろう。俺を誰と間違えているんだろう。答えのない問いを、心の中でひたすら繰り返した。
あのあと、Nはついてくることはなく、三人は無事にポケモンセンターへとたどり着いた。チェレンが三人分の宿泊の手配を済ませると、広間の脇にある通信機でアララギと連絡を取ろうと試みる。アララギはすぐに応答してくれた。
「プラズマ団ねえ……各地で演説してるっていうのは聞いてたけど、まさかカラクサタウンまで来てたなんて」
「博士、あたし、なんだか不安になっちゃったんですけど……」
ベルがボールから出していたリバルトを抱えながらアララギに尋ねる。
「ポケモンの幸せってなんなんでしょう。あたしたちと一緒に居て本当にポケモンたちのためになるのかなあ。解放した方がよかったりするんですかね」
アララギは、うーんと唸ってからひと呼吸置くと、じゃあ、と口を開いた。
「まずは皆が何を思ったのか教えてくれる? ベルは不安に思ったんでしょう。じゃあハインツとチェレンはどう思ったのかな」
「僕はプラズマ団の言ってたことに頷ける部分もありましたが、全部その通りとは思いませんでした。人間と一緒に生活することが幸せだと感じているポケモンだって居るはずですから」
迷いのない真っ直ぐな答えにアララギは微笑んだ。
「そういう考え方もあるわね。じゃ、ハインツは?」
「俺は……」
本当のことを言ってしまえば、ハインツはもうプラズマ団のことなどどうでもいいと思っていた。それよりも、Nという青年のことが頭から離れない。遥か昔にどこかで会ったことがあるような、それでいて全く身に覚えがないような、自分の感覚がまるで自分のものではないように思えて、そのことで頭がいっぱいだった。
「あっそうだ博士! ハインツってば変な人に絡まれたんですよお」
ハインツの表情を見て察したのか、それともただ思い出しただけなのか分からなかったが、ベルが身を乗り出してアララギに報告した。
「そうなんですよ。僕らより十歳くらい年上の男に突然兄さんって呼ばれて……ちょっとおかしな言動だったから慌てて逃げてきたんです」
「あらそうだったの。災難だったわね」
「正直、プラズマ団のこと、もうあんまり覚えてないっていうか、なんかすごく前のことのように思えて、どう思ったとか、全然……」
ハインツは通信機から目を逸らし、足元や自分の指先などを見ながらボソボソと呟いた。研究所でアララギにハインツ自身の言葉が聞きたいと言われたのを思い出し、なるべく自分の気持ちを喋ろうとしたが、だんだん次の言葉が出てこなくなり結局口をつぐんでしまった。
「分かったわ。あなたたち、旅に出てまだ一日目だっていうのにずいぶん大変な目に遭っちゃったのね」
ハインツなりの努力を感じ取ったのか、アララギは優しく微笑んだ。ハインツはなんとなく柔らかい気配を感じ、ゆっくり顔を上げると、アララギの笑みが目に入った。少し強張っていた肩が、微かに力が抜けていくのを感じた。
「プラズマ団のことだけど」
アララギは咳払いをして続ける。
「私は彼らが間違っているとか、正しいとか、そういうことを言える立場ではないの。ポケモンの研究を行っているけれど、ポケモンのための研究も含まれていても、やっぱり人のためだけに行った研究ももちろんあるから」
研究をするにもやはり資金が必要で、人の役に立つ研究をすることで得られるスポンサー等も居るのだという。アララギは三人に向けて、ポケモン研究はそういったスポンサーの協力によって支えられているのだということを教えてくれた。
「別にプラズマ団の思想に共感するのは悪くないと思うわ。ポケモンたちの本来の姿……人間の干渉がポケモンの生息地を狭めているのは事実よ。旅をしていく中で、ポケモンを手放した方がいいかもしれないと思うようになっても、私たちは責めたり問い詰めたりしないし、ちゃんと責任を持って預かるから安心してね」
「ポケモンを逃してくれるんですか?」
ベルの何気ない問いにアララギは微かに眉を顰めた。
「難しいところね。ポケモンを解放するというのは一見とてもポケモンたちのためになることのように思えるけれど、実は逆に傷付ける結果になる場合だってあるのよ」
そう言うと、アララギは画面にひとつのニュースを表示させた。ニュースの内容は、都市に放たれたポケモンがゴミを漁ったり通行人を怪我させてしまったりしていること、また生息地と異なる場所で逃がされた故に衰弱や餓死するケースが増えてきているというものだった。
「私たちはポケモンを手放すべきか否か、それはもっともっと深く考えていかなきゃいけないものだと思うわ。そしていつか手放すって決めたとしても、私たちはポケモンのことを知っていかなきゃいけないって思うの。この子は本当に野生に放して生きていけるのだろうか、この子の食べ物は十分にあるのかどうか、生活環境が合っているのだろうか。そういうことを知っていないと、私たちは結局ポケモンたちを殺すことになるからね」
ポケモンを預かること、ポケモンの親になること。命を預かることの重大さを、あまり分かっていなかったのかもしれないとハインツは思った。この無機質なボールの中に入っているケチャップは、もし人間と関わらずに生きていたら手付かずの自然を駆け回り、同じポカブのオスと番い、子供を産み、家族で群を成していたのかもしれない。その可能性を潰して、今、自分の手元に居るのだ。
それが一体何を意味するのか、多分自分はこの旅で理解しなければいけないのだろう。
そもそも、ハインツはポカブがどんなところに生息していて、どういう生態なのか全くもって分からないことに気がついた。
あとでポカブだけじゃなく、ツタージャやミジュマルの生態も調べてみようと密かに考えた。