門出



 西洋の華やかさとミカグラ独特の厳かさを兼ね備えた町並みの間を車で走る。この町は更に美しく生まれ変わるだろう。ナデシコはそう確信していた。

 後部座席に座る男はどうなのだろう。バックミラー越しにちらりと姿を確認すると、呆けたように窓の外を眺めているのが見えた。
「ずいぶんマシな顔をするようになったじゃないか」
 視線を正面に戻したナデシコはからかうように、後部座席に座る男——モクマに言い放った。
「それって褒めてるの」
「さあ、どうだろう」
 少し拗ねた顔をするモクマに、ナデシコはいたずらっぽく笑って返した。初めて会った時と印象はだいぶ変わったが、今のモクマとこういうやり取りをするのは嫌いではなかった。
「……俺、そんな酷い顔してた?」
 モクマはぼそりと聞こえるか聞こえないか分からない声量で呟いた。ナデシコに尋ねるというより、自問のようだった。
「いい相棒を持ったな、モクマ」
 ナデシコはあえて聞こえない振りをした。
「ナデシコちゃん」
 名前を呼ばれ一瞬だけバックミラーを見ると、同じように鏡を通してナデシコを見ているモクマと目が合った。
「ありがとね」
 ナデシコはもう一度、聞こえない振りをした。
「空港が見えてきたぞ」
 モクマは短い旅の終わりを感じ、大袈裟に深いため息をついてみせる。
「短いデートだった……島を一周したって足りないくらいだよ……」
「だらしないな。シャキッと背筋を伸ばせ」
 ちょうど赤信号で停車したのでナデシコはミラー越しではなく、後ろを振り向いて己の眼でモクマを見た。窓に寄りかかってうなだれているのが見えた。
 私は、一体この男の何なのだろう。ナデシコは心の中で呟いた。
 モクマは仲間たちに、ナデシコのことを『恩人』だと紹介したらしい。助けてもらったことがあるのだと、そう説明したようだ。
 その話をルークから聞いたとき、ナデシコは血の気が引いて全身の体温が急に下がったように感じた。
 私は、一体この男に何をしてやれたというのだろう。数日共に過ごした中で、モクマを少しでも助けてやれたことがあっただろうか。そういう思いが身体の内側で暴れるように膨れ上がった。
 二十年もの間、ナデシコはずっと自問していた。モクマに対して自分の行いは正しかったのだろうか、と。里に居る資格が無いと、自分は罪人なのだと言っていたが、本当はマイカに返すべきだったのではないか。島の外へ送り出すべきではなかったのではないのか。答えはどこにもないのだと分かっていても、問い続けずにはいられなかった。
「なに? なんかついてる?」
 ナデシコの視線に気付いたモクマが恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いや、別に」
 信号が青に変わった。ナデシコは正面に向き直りアクセルを踏んだ。
 空港が見えてきたと思うとすぐミカグラ空港の敷地に入り、五分も経たずに正面玄関までたどり着いた。
「着いたぞ」
 サイドブレーキをかけたナデシコが声をかけた。
「ありがと、ナデシコちゃん」
 モクマは足元のスーツケースを抱えると、運転手にもはっきりと聞こえる大きさで礼を言った。先程の言い直しだろうか、それとも空港までのドライブか。ナデシコは後者として受け取った。
「なに、このくらいどうってことない」
 ナデシコの返しをどう受け取ったのかは分からないが、モクマは満足そうに微笑んだ。
(ああ、本当にいい顔をするようになった)
 モクマの微笑みを受けてナデシコはそう思った。二十年前も、この顔を見て送り出したかった。
 ディスカードを検挙するための駒は、モクマ以外にもっと適した人間が居たのかもしれない。それでもナデシコがモクマを選んだのは、ミカグラの人間がいた方がいいと思ったからなのか、忍者の戦闘力を高く評価したからだろうか、それとも。
 ナデシコは苦笑した。この男を前にすると、ずいぶん前に押し殺したはずの青くさい少女の心が顔を覗かせる。満足したか、ナデシコ。お前はこの顔が見たかったんだろう?
「モクマ」
 車を降りようとドアを開けたモクマを呼び止めた。
「お前は、お前のために生きろ」
 偽造パスポートを手渡したあの日、言えなかった言葉を口にした。胸が締め付けられるように痛むが、それと同時に大声で泣いて笑ってはしゃぎ倒したいくらい身体中に喜びが満ちている。
「そして、お前を必要としてくれる人のために生きろ」
 お前を縛るものはもう何も無い。お前はお前の人生を歩むべきだ。島を一周ドライブしたって伝えきれないくらいの沢山の思いを、ナデシコは『生きろ』という言葉に込めた。
 モクマに届けばいいという思いと、一生届かなければいいという思いが同時に浮かぶ。
「もちろんだよ」
 モクマは満面の笑みを浮かべて力強く答えた。その笑みを見て、ナデシコも自然と笑顔になる。
 さようなら、私の小さなニンジャ。
 ナデシコは淡い少女の想いを懐かしむように思い出し、その想いにそっと蓋をした。

++++++

 凶悪犯罪組織が一斉検挙され世界の脅威がひとつ消え去ったというのに、この町はなにひとつ変わりはしなかった。いつも通りの賑わい、いつも通りの景色。劇的に変化してしまうよりはいいのかもしれないが、少しくらい変化があってもいいのではないかとモクマは思った。
 この島ではディスカードの検挙より前に大きな変化があった。犯罪やら事件やらに関わりがない人からすれば、犯罪組織が無くなることよりもずっと身近な話題に思えるのかもしれない。
 ひとつの里が消え、この町に人が大勢増えた。
 モクマはスーツケースを引きながら外へ出ると、振り返って『オフィス・ナデシコ』の文字を眺めた。こんなにひとところに留まったのは久しぶりだった。思っていた以上に愛着がわいたらしい。
「空港まで送ろうか」
 オフィスから出てきたナデシコが車のキーをくるくると指で回しながら近付いてきた。空港でチェズレイと合流するまでひとりだと思っていたモクマは、思わず口元が緩んでしまった。
「お言葉に甘えさせてもらおうかな」
 落ち着いてそう返したが、本当は飛び上がりたいほど嬉しかった。
「ずいぶんマシな顔をするようになったじゃないか」
 オフィスを出立し、この島に戻ってきてから今日までの出来事をぼんやりと思い返していると、からかうようにナデシコが声をかけてきた。
「それって褒めてるの」
「さあ、どうだろう」
 モクマが大袈裟に拗ねた調子で返すと、ナデシコはニヤリと笑ってみせる。ナデシコは久し振りに会ったモクマに対してどう感じたのだろうか。やはり幻滅したのか。そんなに変わってないと思われたのか。
「……俺、そんな酷い顔してた?」
 ナデシコがマシだと思った顔は、いつの時と比べてなのだろう。二十年前? それとも数ヶ月前だろうか。
「いい相棒を持ったな、モクマ」
 そう言われ、モクマはどう受け止めればいいのか分からなくなった。いい相棒、確かにそうだ。チェズレイが居なければ、今ここにモクマは存在しなかったはずだ。互いに救いを見出し、互いを助け合った。だがモクマは、この『マシな顔』は決してチェズレイひとりによってもたらされたものではないとも思っていた。きっとチェズレイの『マシな顔』もそうなのだろう。
「ナデシコちゃん」
 恩人の名を呼ぶと、バックミラー越しに目が合った。
「ありがとね」
「空港が見えてきたぞ」
 視線を正面に戻したナデシコが言う。聞こえなかったのだろうか、いやきっと聞こえてた。ずるい大人になったな、とモクマは自分を棚に上げて心の中で呟いた。
「短いデートだった……島を一周したって足りないくらいだよ……」
「だらしないな。シャキッと背筋を伸ばせ」
 ドアに寄りかかって子どものようにいじけていると、赤信号で停車しているからかナデシコが後ろに振り向いてモクマを見た。
 何か言うのかと思って構えていると、一向に口を開く気配がない。
「なに? なんかついてる?」
 ナデシコに見つめられたまま沈黙が続く空気に耐えきれず、モクマは思わず口を挟んだ。
「いや、別に」
 そう言うと素っ気なくまた正面に向き直ってしまった。
(ナデシコちゃんはほんとに変わらないな)
 艶やかな美しさ、力強い眼差し。記憶は美化されるというが、久しぶりに会ったナデシコは記憶以上に美しかった。
「着いたぞ」
 空港の正面玄関に到着すると、ナデシコが言い放った。
「ありがと、ナデシコちゃん」
 二十年前に里を出て島を出て、そしてもう一度ここに戻ってきて再び旅立つこの瞬間まで、ナデシコから与えられた全てのものに対してモクマは礼を言った。今度は聞こえない振りができないくらい、はっきりとした声で。
「なに、このくらいどうってことない」
 澄ました顔で返すナデシコを見てモクマは微笑んだ。伝えたいことはたくさんあるが、以前と違って気軽に帰ってきてもいいのだ。また次の機会に話をしよう。そう思った。
「モクマ」
 ドアを開けた瞬間ナデシコに名を呼ばれ、動きを止めた。
「お前は、お前のために生きろ」
 そう言われた瞬間、モクマは目頭が熱くなるのを感じた。
 主を殺してからナデシコに保護されるまでずっと断食していたあの頃の、ナデシコが用意してくれた久々の食事を、あの粥の味を、なぜか唐突に思い出した。
「そして、お前を必要としてくれる人のために生きろ」
 その一言を聞いてモクマは救われたような気がした。ナデシコは今の自分を正面から見据え、そして認めてくれている。自らの進むべき道を見つけたモクマの背中を押してくれているのだと感じた。
 それと同時にその言葉は拒絶なのだとも思った。ナデシコにモクマは必要ないし、モクマにもナデシコは必要ない。そういう言葉なのだとモクマは受け取った。
 それでも呼び止めて欲しい、とモクマは思った。ミカグラ島に居て欲しいと、ここに居てくれと、ナデシコに言って欲しくてたまらなくなった。留まる気持ちなんて一ミリだってないのに、どうしようもないくらいナデシコに求められたいと思った。
(ほんと、救いようのない下衆だな)
 分かってる。そんなの自分のためにも彼女のためにもならない。
 俺のすべき事はひとつじゃないか。こんなにもはっきりと己の前に進むべき道が広がっているのに。
「もちろんだよ」
 もう大丈夫。だって道を誤ったとしても、正してくれる人が居るのだから。
 俺は生きるよ、ナデシコちゃん。
 モクマが笑顔で返すと、ナデシコも口元を緩めた。その笑顔を見ながら、二十年前にもその笑顔が見たかったな、とモクマはぼんやり考えた。

2024年10月30日