大勢の人が行き交っているのを見て、ティーガンは静かに舌打ちした。目的地までの最短ルートとしてこの道を選んだが、昼休憩の真っ只中というのをすっかり失念していた自分を恨んだ。食堂に向かう職員や兵士でごった返している。
周り道をするべきか迷ったが、ここまで来てしまえば別棟まで向かうより人をかき分けて進む方が時間のロスは少ないだろうと考え直した。ティーガンは、すみません、すみません、と言いながら半ば突き飛ばす勢いで人混みをかき分けて進み、早足に医務室へ向かった。
エルロが倒れたと聞いたのは、今から30分ほど前だった。
ティーガンはここ最近ラボから離れた仕事に就いていた。ケミコ・コントラに所属する最年長の研究者が自分の権限を使って、一時的にティーガンをアイボリー配給の部署に回したのだった。表向きには、ティーガンがラボで大きな失敗をしてしまい一時的に左遷されたということになっているが、実際はケミコ・コントラが得た機密情報を行き渡らせるためのパイプ役を担うための異動だった。少しの間、科学者たちの目を盗んで動けるメンバーが必要だったのだ。
そういう理由で、今ティーガンはラボの研究員の制服ではなく、アイボリー配給の作業員用の制服を着ていた。
先程アイボリー配給の仕事をしているとき、配給待ちのトラックにたまたま知り合いの兵士──喫煙所でよく会うエルロの顔なじみの兵士が乗っていて、非常用の救急救命セットを医務室に取りに行ったときエルロが運ばれているのを見かけたと教えてくれた。すぐに向かいたかったが、仕事を抜けられるはずがなく、結局この時間になってしまった。
アイボリー配給は本部の人間以外にも、バスティオンからの来客や、任務から戻ってくる兵士たちにも行うため、この部署は日によって休憩時間が異なる。来客が多い日はものすごく早く昼食を取らされるし、帰還兵が多い日は夕方近くになることも少なくない。そのサイクルにすっかり馴染んでしまったティーガンは、今日は偶然一般職員と同じ休憩時間ということも忘れて作業場を飛び出してしまったのだ。人混みを抜けると、昼食を済ませてから来ればちょうどよかったかもしれない、と思ったが、エルロがどういう状況で運ばれたのかわからない以上、どれだけ休憩時間を把握していたとしても真っ先に飛び出していたな、と考え直した。
パイプ役を買って出てから、ティーガンはほとんどエルロに会っていない。その事実が、よりティーガンを不安にさせた。
一年ほど前に、本部周辺を大きな地震が襲った。建物が崩れることはなかったが、ガラスが割れたり、機材がぐちゃぐちゃになってしまったりと、しばらく通常業務ができないくらいの規模だった。
その時、エルロは倒れてきた棚から同僚を庇い、潰されはしなかったが中に入っていた薬品が背中一面にかかってしまい大怪我を負った。
エルロは時折、自分の体を物のように扱うことがある。
ヘルメットを被せる感覚で、自分の体を同僚と棚の間に滑り込ませたのだ。遠巻きにその様子を見ていたティーガンは、エルロの危うさに言葉を失った。いつかクッション材のように潰れるエルロを見る日が来るんじゃないかと思えてならなかった。
医務室に到着すると想像以上に室内が慌ただしく、ティーガンは一瞬入るのをためらったが、一番手前にいた職員にエルロのことを尋ねると丁寧に案内してくれた。
今日帰還した部隊は、どうやら怪我人が多いらしい。呻きながら手当てを受けている兵士たちのベッドを抜けて、エルロの居る奥のベッドに向かった。エルロの姿が見えたのでティーガンは駆け寄ろうとしたが、ベッドの脇に座っている人物を見て思わず息をのんだ。
「……エージェント、グレイ」
名前を呼ばれたグレイは、ゆっくりとティーガンの方を向いて微笑んだ。
「やあ、彼の友達かな」
エルロは寝ているらしく、グレイは少し声をひそめてティーガンに尋ねた。
「エルロは渡り廊下でうずくまっていてね。人通りが全然ないところだったから、第一発見者の私が運んできたんだ」
突然現れたエージェントに対してティーガンは驚きを隠せず唖然としていたが、そんなティーガンを気にすることなくグレイは穏やかに続ける。
「今日は海賊の調査に出てた部隊が帰って来ていて、なんだか海賊の機械に手こずったらしいね、医務室は大忙しなんだよ。エルロは、ああそうだ、さっき吐いてしまって、ほら、脱水状態になりそうだったから点滴を打ってもらったのさ」
グレイが指差した先を見ると、エルロの腕には点滴が刺さっていた。ティーガンはエルロの血の気が引いた顔を見て、胃のあたりがぎゅっと締め付けられるような不安を覚えた。そんなティーガンの表情の変化を察したのか、グレイは柔らかく微笑みながら口を開いた。
「彼は大丈夫だよ。もう落ち着いてぐっすりと眠っているから。私がここに居るのは、体調が急変したら教えてくれってスタッフに言われたからなんだ」
そう言いながらグレイは椅子から立ち上がってティーガンの肩に手を置いた。少しかがんで目線を合わせてくれている。
ティーガンは、エルロよりも血の気が引ききった真っ白なグレイの顔を見て、全身の毛が逆立つような恐怖を感じた。エージェントの血がアイボリーだということは知っていたが、こうして近くでまじまじと見ると、人間として何か間違っているような感じがして、本能を刺激するほどの危機感が全身に広がるように思えた。
ティーガンは、必死でグレイに動揺を悟られないよう平静を装おうとした。この動揺は、グレイが居て驚いたものでも、エージェントに対して感じる違和感からくるものでもない。
エルロはなぜ人通りの少ない渡り廊下に居て、そしてなぜグレイはその渡り廊下を通ったのか。
エルロはケミコ・コントラの活動をしていたのか。グレイはエルロを探っているのか。今のティーガンは正確に状況を判断するための情報を持っておらず、どう動くべきなのか考えても考えても良い考えが浮かばなかった。
「私はそろそろ戻らなくてはいけないんだ」
ぐるぐると思考を巡らせていると、グレイが話しかけてきた。思わず、ビクッと体を強張らせてしまった。
「そう緊張しないでくれよ。私まで緊張してしまうからさ。エージェントと話すのは初めてかい?」
グレイが緊張状態とは程遠い、落ち着いてゆっくりとした口調でそう尋ねると、ティーガンは素早く何度か頷いて見せた。
「ふふ、可愛らしいね。安心して。噛み付いたりしないから」
くすくすと笑うグレイを、ティーガンは眺め続けた。このエージェントの腹の内が読めず、何を言っても状況を悪くしてしまいそうで言葉が出てこなかった。
「ああ、そうだった。私はそろそろ行かなくちゃいけないから、君、代わってくれるかな」
ティーガンはようやく言葉を絞り出した。
「あ……でも仕事が……」
グレイはティーガンが初めて受け答えをしてくれたのが嬉しかったのか、満足そうな笑みを浮かべて続けた。
「君はアイボリー配給の子だよね。エージェントから直接仕事を任されたと担当者に伝えておくから安心してくれ。担当ゲートはどこかな?あと名前を伺っても?」
「えっと、10番ゲートの、ティーガンです」
「ありがとう。10番ゲートの責任者にちゃんと伝えるよ。エルロを見守っていてあげて。目を覚ました時に、こんな、威圧感のある私がそばにいるより、友達がいてくれたほうがきっと安心すると思うから」
グレイは自分の大きな体を差して、ふふっと笑ってみせた。ワン・コンサーンに所属する人々の中でもグレイは群を抜いて背が高かったが、たまに子供のような無邪気さを覗かせるグレイから体格に見合った威圧を感じることはなかった。
一礼して去っていくグレイの背中を、ティーガンはひたすら眺めていた。その姿が完全に見えなくなると、深く息を吐きながらようやく肩の力を抜いた。ティーガンの額には、じっとりと汗が浮かんでいる。
エルロが目覚めるのを待ちながら、ティーガンは眉間を押さえ考え込んでいた。
エージェント・グレイは、ケミコ・コントラの存在に気付き始めているのかもしれない。
自分は医務室に駆け込んでくるほどエルロと親しく、そしてティーガンという名前であることをグレイに話してしまった。
いくらエルロが心配だからといって真っ先に向かったのは軽率だったかもな、とティーガンは思ったが、倒れたエルロを介抱したのがエージェント・グレイだなんて一体誰が想像できただろうか、と現状に苛立った。
そんなティーガンの気疲れなど知らず、エルロは静かに寝ている。
ティーガンは起こさないように、そっとエルロの髪を撫でた。勤務部署が変わってからずいぶん会っていなかったが、髪を切った様子はなく結べるほど伸びていた。最近は髭もまともに剃っていないのだろう。優しく顎をなぞると無精髭がちくちくと指に当たる。
きっとエルロは、ろくに食事も睡眠も取らず、研究に没頭していたに違いない。以前のプロジェクトで一緒に研究していたときも、そういう状態になった期間があった。そのときはティーガンが無理矢理ラボからエルロを引きずり出し、必要最低限の人間的な生活を行わせた。
今のラボには、エルロを止められる人間が居ないのだ。
ティーガンは静かにため息をついた。この自己管理が全くできない男は中途半端に実績があるものだから、結果が欲しい上司たちは止めるどころかむしろ研究を続けろと促すだろう。
先程グレイに「彼の友達かな」と聞かれて、ティーガンは違和感を覚えた。ティーガンとエルロの間にあるのは、きっと友情ではない。少なくとも、ティーガンはそう思っている。
この男は、危うい。何もかも。
エルロのとなりに居ると、彼が死ぬビジョンがありありと浮かんでくることがある。物の下敷きになって潰れる、とか、過労死する、とか。人が死ぬのを見たくない、そうなって欲しくないから、私は必死で彼を止めようとするのだ。
これはきっと友情じゃない。
私のエゴだ。優しさでもない。
エルロはどう思っているのだろう、とティーガンは思った。ティーガンは自分ばかりエルロを気にしていると思っていたが、パイプ役を買って出たときエルロに強く止められたのが印象に残っている。
ティーガンがエルロを見て危うさを感じているように、エルロもティーガンを見て危うさを感じているのかもしれない。
天涯孤独であるティーガンは、ケミコ・コントラの活動において危険な仕事があると積極的に請け負うようにしていた。
自分に何かあっても、悲しむ人など居ない。できることがあるなら、するべきだ。ティーガンはいつもそう言っていた。
寝ているエルロの顔を見ながら、ティーガンはぼんやりと考えていた。
私たちは一体どういう関係なのだろう。
こんな関係を友人というのだろうか。
多分、私たちは私たちの関係を明確に形にする為の言葉を持ち合わせていないのだと思う。
でもきっとこれで良いのだ。
ティーガンとエルロは、これからもティーガンとエルロで居続けるだろう。